グローバルでもったいないが定着しつつある。これは、昨今の環境負荷への配慮から海外で熱を帯びてきている。その流れも手伝って、リユース特にデジタル家電製品の再利用が最近では話題だ。フランスではバックマーケットというリユースのベンチャー企業が流行っているようだ。日本にも進出しており、今後の世界的ムーブメントも手伝って今後の展望は明るいように感じる。
しかし、面白いことに日本では、他国に比べ伸長が遅いと聞く。ここに以前から感じてきた、日本と海外の「もったいない」の認識の違いが国民性としてあるのではないかと感じる。海外では「エコ」のかんてんからリユース特にデジタル関係のものが増えてきているように感じる。対して日本では、環境に対する配慮は、あるかもしれないが海外のそれとはだいぶ感覚が違うように感じる。日本では、高い品質や個包装による清潔さがエコに優って重要とされているように感じる。
この違いはどこから来るのか?それは、木の文化である日本と西洋の文化である。キリスト教的な神から与えられた自然や石積みのい家を使用する文化の違いによるものが根源的であるように感じる。それは、日本では基本的に、最終的に消えてなくなるという概念のもと成り立っており、例えば木製でできた箒を簡単に捨てずに、使えなくなるギリギリまで使い続けるといった精神性だ。つまり日本では、中古を買うというより、新しいものを長く使い続けるということが、国民性であると思う。高級品や一点ものなどは別として、日常的に使用するものは長く使い、中古で販売して、また人の手垢がついた中古のものを買い直すという文化ではないのだ。対して、海外のもったいないは新しい概念であり、「エコ」対する意識が高い特に欧州では、時代の変遷としては新しい概念に、「もったいない」を当てはめたのだ。
昔から、石造りの家を繰り返し使用し続けている海外では、昔からの文化的価値観に、大量消費社会になって新しいラベリングを行ったという方が正しいだろうか?
このような観点から、「もったいない」という言葉の意味は、海外と日本で別の意味を持つように思われる。逆もまた然りだが、文化が違うと同じ言葉でも、完全に一致した意味にはならず、類似の意味ではあるが根源的には異なるものになるように思われる。だとすれば、文化的背景が言葉の意味を形づける。
人の理解し合えるという妄想は、ホモサピエンスが消滅するまで、継続され続けるシニカルな生き物かもしれない。
しかし、僕は動物として感覚を共有できる、動物としてのホモサピエンスを信じている。