ブルデュー ディスタンクシオン 要約

ブルデュー(ディスタンクシオン)

100分で名著より

Prologue

ブルデュー社会学の大きなテーマは「自由とは何か?」という事。

本書では、①趣味とは何か、②文化とは何か、③趣味や嗜好と言う個人的な領域が、如何に社会と結びついているかを考察している。

第一回 私と言う社会

ピエール・ブルデューの経歴

田舎の農村出身

頭がよく上位の高校へ( from low society to high society)

グランセコール(高等教育機関)→エコル・ノルマン・シュペリユール(哲学)

自ら進んで兵役でナイジェリアへ

(サルトルなど知識人が高みの見物客でアルジェリアの独立を謳っている事に違和感を持つ)

ブルデューは以下の3つの概念で説明する。

①ハビトゥス

②界

③文化資本

①ハビトゥスとは

私たちの評価や行動のさまざまな傾向性のことであり、同時にそれらを生み出す原理のこと。

ハビトゥスは社会関係の中で作られ、その人のパーソナリティとは関係ない。

私たちはハビトゥスによって趣味や好みを選び、分類されている。

例えば音楽のグールドなどに衝撃を受けるような「稲妻の一撃」は個人独自のものではなく、それを受け入れる素養を社会関係の中から獲得している事が必要。

第二回 趣味と言う闘争

②同じようなハビトゥスの人々が自らを分類しながらクラスターを形成していく様子を社会の側からみるとどうだろうか?

さまざまな座標軸によって構成される一つの空間が見えてくる。

ブルデューは私たちがゲームに参加しているこの空間の事を「界」と呼ぶ。

「界」とは、ある「賭け金」や「ルール」で構成された相対的に自律的な場、あるいはあるいは社会的な空間の事と定義している。

ここで言う「賭け金」とは象徴的な利得であり、平たく言うと他者の評価や承認、あるいは権威のようなものである。

社会的にどう評価されているかと言う象徴闘争である。(デリダ、構造主義)

自分の趣味とは何よりもまず他者の「嫌悪」でありそれによりクラスターが形成される。

ブルデューの興味深いところは縦軸を「資本量」とし、横軸を「文化資本、経済資本」としているところだ。

この空間に置いて私たちは、資本やハビトゥスを「武器」として、なんらかの「ゲーム」に参加している。

第三回 文化資本と階層

③行為者が身につけた文化が資本として機能する事を文化資本と定義づけている。また、「美的性向」は生まれながらに持っているものではなく、歴史的(後天的)に作られるものなのでしかも階級に相関性がある。

例えば、勉強に関しては、知的能力の問題では机に向かう事がそれほど苦痛ではないような身体的技法と、机に向かう事がなんの不思議もない当たり前のことであると言う感覚を持っているかどうかだ、としている。

また、重要な点として、学校教育についても言及している。

一般的に学校教育は階級シャッフルと考えられているが、ブルデューによれば、学校が階級格差を正当化するとしている。

不良がイキがって、自ら不登校になる様に、「自由意志」によって格差が再生産される

と言う皮肉な現実である。

就学以前に獲得される文化資本によって、社会での分類(階級)が再生産されてしまうのである。

第四回 人生の社会学

境界と境界感覚について

ブルデューが行った事を一言で言えば、「構造」と「その構造の生成のしくみ」を明らかにした。

文化資本が潤沢な家庭では、自然にその状況を享受し、「競争などしていない」と言う態度で、現実の差異を自然化する。

「客観的な境界」が「境界の感覚」になる。

この空間の中で自分と他者とを区別する感覚を身につけてしまう。

これを「自分の場所の感覚」(センスオブワンズプレイス)と呼んでいる。

自分に拒否されているものを拒否し、帰するものに身をゆだね、自分のあるべき姿、すなわち「謙虚で」「慎ましく」「目立たない」存在であることを受け入れる。

合理的な行為者

すべての人の行為や判断には、たとえ私たちにとって簡単に理解できなくても、そこにはその人なりの理由や動機や根拠がある。「その人が、その人である理由を、非常に強力な理論で緻密に言語化したのが、ブルデューのディスタンクシオンである。

ブルデューの「世界の悲惨」には表立って表現されることのない苦しみで溢れている。

不自由を知るという自由(終わりに)

ブルデューの理論は決定論であると批判される事が多い。

しかし、野心の冷却(クーリングアウト)という様に、知り得ないものはそもそも変化すら起こせない。そう言った意味でディスタンクシオンには、構造を理解させてくれる価値がある。そもそも、ブルデュー自身がそうである様に負の再生産は行われていない。

何事にも、マイノリティ、異分子、論理を逸脱するモノが存在する。

彼らは、常識的な範囲を超越し独自の言語によって世界を掌握する。

そう言った意味で、本書は未来への一石を投じるものになり得はしないだろうか。

陰翳礼讃

日本的情緒はどこから来るのか?

日本人は暗闇を文化に取り入れてきたと言う。

ひさしが長く、昼間でも部屋の奥はどこか仄暗い。

夜に於いては、蝋燭を灯し、暗がりの中で食す。

それによって、あの漆の艶めきや、金の美しさを感じることができると言う。

現代に置いて、暗がりを駆逐してしまった日本人の情緒はどこへ向かうのか?

要約 シン・ニホン

イシューから始めよに引き続き、同じく安宅和人さん。日本の現状の説明から始まり、如何に日本が機器的な状況であるかを力説する。このAI×データが躍進している現代、日本は全くこの波に乗れず、15年間負け続け惨敗。国力の根源である科学技術への投資は削減の一途をたどり、大学ランキング、論文数ともに急落している。その上、「ジャマおじ」たちが舵取りを行なっているが故に、全く現代への適合が進まない。

この、全く希望が見出せない現代に置いて彼は以下の提言をしている。日本は昔から0→1では勝てない。この第一フェーズが終わる今こそ、第二フェーズを奪取するための準備をするべきだと。日本の強みはオールドエコノミーをフルセットで備えている事で、まずこのフェーズに乗れる様にAI -ready化が必要だ。この国の勝ち筋として以下の点を挙げている。

1:この国は想像力では負けない

2:全てご破算で明るくやる

3:圧倒的なスピード

4:ふぞろいな木組み(アシンメトリー)

そのために求められる人材、およびポイントは、異人の時代、狭き門より入れ、運・根気・勘・チャーム、AI -ready化、リベラルアーツだと。この章で彼は「知覚は経験から生まれる」と言っているが、非常に同意するところである。また、科学技術への投資額の減少により、リーダー層の人材が不足しているが、その点は、エンジニア層とマネジメント層への教育や、外国人によって補うべきだと言っている。

ここでの根源的な問題はリソース分配が老人に多く振り分けられていることによる。この国を未来に賭けられる国にするために、いくつかの提言をしている。医療費に向けられる費用のほんの数%だけ若者に、科学技術研究費に回せというのだ。また膨張し続ける社会保証費に対応するため、保険に松竹梅をつけるべきとも提言している。

最後の章では、地球環境や不確実性について触れているが、個人的には、

人:家畜:野生動物=3トン:7トン:1トン

と言う点が非常に印象的であった。家畜が人のために存在すると言うなら、人はこの地球の9割以上支配している事になる。

そんな地球をディストピアにさせないために、彼は「風の谷」コンセプトを打ち出す。簡単に言うと、田舎に住もう、環境負荷を低減させようと言う事だ。

この先の未来が、風の谷なのか、はたまたブレードランナーなのかはわからない。

しかし、このコロナ禍に、このタイミングで、この本が売れるのは、何らかの必然もあるのかもしれないと思わなくもない今日この頃である。

要約 イシューから始めよ

最近読書会を行う機会が時折あり、如何に自身に読解力が足りないかを感じたため要約を始める事にした。なぜ要約かと言えば、物事を理解する尺度としてはアウトプットと言う行為が適切であろうと思い至った故である。書評と言いたいところだが、そこまでの能力はないであろうと自覚し要約から始める事とする。生暖かくお付き合い願いたい。あるいは、万が一、少しは読解力の向上が見られる様になるかもしれない。

⓪ この本の考え方

根性に逃げるな

生産性=アウトプット/インプット

イシュー、解の質を上げる

一次情報を死守せよ

① イシュードリブン

イシューを見極める。「最初は一人では無理」「メンターを見つけよ」

言語化する(答えを出せるイシューである事が大切)

希少性(人が出せずとも、自分が解を出せることがポイント)

知りすぎない事が重要

② 仮説ドリブン

イシューを分解(ダブり、もれなく)

仮説ストーリーを作る

ストーリーラインを組み立てる(whyの並び立て。空、雨、傘)

③ ストーリーを絵コンテにする(仮説ドリブン2)

仮説にデータを肉付けしてゆく

イメージを具体化する(数値の挿入等)

④ アウトプットドリブン

いきなり飛び込まない

重要な外せないポイントだけ見極めてゆく(空、雨、傘)

⑤ メッセージドリブン(伝えるものをまとめる)

賢いが無知な相手に伝えると想定する

3つの確認プロセス(1:論理構造の確認、2:流れを磨く、3:エレベーターテストに備える)

1チャート、1メッセージ

旅から日常へ

お久しぶりです。

旅から帰国後、ブログの更新が全くできていなかった。日常に忙殺されていた事もあるが、旅のブログのみで終わらせるのももったいないと常々考えてきた。月並みではあるが、なんちゃって世界一周した僕としては、日本で働いている日常も旅と言えなくもない。固定観念に囚われなければ、いつ何時たりとも事象は流動性を有する。この現状から鑑み、「日常は旅である」し、「旅すらも日常である」と言っていいだろう。

表象的ラベルに意味はない。僕の認識が正しければ、ビトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という事だろうか。

個人的な認識は、如何に表象を用いようと共有する事は不可能だ。自身の世界を完璧に表象できるラベルなど存在しない。人は孤独になるのではなく、生まれてから死ぬ直前まで孤独である。言葉が通じるという誤解こそが、人の唯一の救いなのかもしれない。

もとい、最近は読書をする事を旅する様に楽しんでいるのだが、物事を理解するにはアウトプットが欠かせないと今更ながら思い立ったので、書評らしきものも加えて行こうと思う。おそらく、稚拙な書評にもならない文章かと思うが、生暖かい目で、ご容赦いただきたい。

なお、今後も旅については時間があれば続きを書いていくつもりではいる。(と言ってここ二年かけていなかっただが…)